雅子様がなぜご病気になったか。それは当初の夢であった外交官の道を志半ばで断ち切って皇室入りしたこと、皇室入り後、自分の理想と現実にあまりに差があったことに起因している。

ご自分の意思と無関係なところで外務大臣や天皇陛下までが動き、結婚を断る選択肢をなくした雅子さまは、プロポーズを受けた際にこう述べている。

お断りする場合も含めて、きちんとご返事します

その後は目の下に隈を作り、何日も寝てないような様子で、体調を崩して10日ほど外務省を休んだ。失礼ながら前向きな結婚でなかったのは明らかである。

最終的にプロポーズは受諾され、国内メディアの多くが率直な祝辞を述べた。バブル崩壊後の不況の中、国民は久しぶりのお祝いごとに熱狂した。

しかしごく一部の人が、「聡明で高い教育を受けた外交官が、なぜその仕事を投げ出さないといけないのか」など疑問を提示し始めた。

こういった事実は日本ではほとんど報道されなかったが、海外ではその見方が強く、ニューズウィークはこの結婚を「いやいやながらのプリンセス」というタイトルで論評した。

6月9日、「日本の消極的なプリンセス」である小和田雅子は、事実上戻ってこれない堀を越える。彼女は皇太子である徳仁親王によって選ばれ、次の日本の皇后となる。彼女の外交官としての人生は終わり、多くの日本人にでさえ前近代的に見える世界の一部になる。(意訳)

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結婚前から「厚かましい」「女性らしいお淑やかさに欠ける」などのバッシングを浴びている雅子さまだが、本格的なバッシングは結婚会見から始まった。

この記者会見はご夫婦でそろって宮内庁の子飼いの記者たちからの質問に受け答えする場だったが、その内容に元侍従の浜尾実氏が難癖をつけた。

ストップウォッチを持ち出して二人が話している時間を計測したところ、雅子さまは9分37秒、皇太子さまはそれより28秒短かった。

浜尾実 元東宮侍従

ちょっとあつかましすぎるように感じました。なんと言っても、しゃべりすぎです。
尋ねられていないことまでしゃべっています。アメリカ人のような振る舞いです。

西洋人がレディファーストと言うからといって、殿方の前に立って歩きます。こういうこともアメリカはいいのでしょうが、日本はもっと控えめにしたほうが良いと思います。

ばかばかしい話だし、聞き方によってはアメリカ人を小馬鹿にしたような言い方だが、当時はこんなことでも真面目に議論されていた。元侍従の言葉ではあるが、当時の宮内庁も、海外で何年も過ごしていた雅子さまを、宮内庁は「日本人的」でないとみなしていた。

そしてこの会見以降、雅子さまは公の場での発言を許されなくなる。その後の3年間で人前でしゃべる機会はたったの1回しかなかった。

1994年。今から25年前だが、先日トランプ大統領を流暢な英語でもてなし絶賛を浴びたのと同様、25年前にも雅子さまはサミット首脳を招いた宮中晩餐会で高い英語力を評価された。

次々と到着するゲストに、雅子さまは英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語を操って会話した。コール首相(ドイツ)が「来年は是非ドイツに来てください」と賛辞を贈ったのを筆頭に、次々と各国首脳の高い評価を受けた。

晩餐会を無事終えられ幾分かリラックスされたのか、雅子さまも歓談に花を咲かせていた。クリントン大統領はヒラリー夫人に向かって言った。

「雅子妃は実に素晴らしい方だ。私と同じオックスフォード大留学生だしね。身のこなしも会話もすべて完璧だ」

ザ・プリンセス 雅子妃物語

しかしこういった賛辞にも宮内庁は眉をひそめた。

この晩餐会の様子をみたある宮内庁関係者は言う。

「皇太子ご夫妻の披露宴ではないのですから、妃殿下が流暢に各国の首脳たちと外国語を話されて目立ってしまうことに違和感があったのです。陛下主催の国賓行事であるということや、殿下よりも長く話されてしまわないよう、もう少しお気遣いされたほうがよかったのではないでしょうか」

ザ・プリンセス 雅子妃物語

当時、皇位継承者第1位は皇太子殿下、第2位は秋篠宮殿下で、それより下の結婚前の皇族は分家をたどっても存在しなかった。

したがって宮内庁は雅子さまが男児を産むことを強く期待した。

結婚当時で29歳だった雅子さまは早くから男児出産を最優先とするよう周囲から求められ、雅子さまもこれに応えようと努力した。しかし子供は作ろうと思ってすぐにできるものでもない。

次第に月日が経ち宮内庁が焦りを見せると、宮内庁は雅子さまの海外訪問を禁止してしまった。

たった2回しか実現しなかった外国訪問

1994年に中東4カ国(サウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーン)を訪問、1995年にはクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンを訪問した。

95年の訪問の際は阪神大震災が起きた影響で、被災地に配慮し早期に帰国している。これを機に雅子さまは慰問などの公務に強い関心・意欲を示したが、やはり宮内庁によってこれも無碍にあしらわれる。

阪神大震災の慰問をきっかけに、雅子妃は今後の公務で自分がどのようなことで役に立てるのかお考えになっていた。そして、そのことを宮内庁のなかでご相談されたという。

ところが、考えるべきことは世継ぎのことで、公務のことは必要ないという返答だったため、黙り込んでしまったと言われている。

ザ・プリンセス 雅子妃物語

雅子さまは2004年あたりから公務が少ない、さぼっているなどの不当な批判を浴びたが、遡れば公務に積極的な姿勢の雅子さまを宮内庁が制止している状況だった。

結婚から3年が経ち懐妊の兆しがない雅子さまに宮内庁は疑惑の目を向ける。不妊の原因は雅子さまにあり、子供を作らずに外国に行きたいだけなのでは? というものだ。

97年、宮内庁長官の鎌倉節氏が雅子さまにいきなり夫婦間の微妙な話題や身体のことに突っ込んだことを尋ねたという。いくらなんでも自分よりだいぶ年上の男性にそんな赤裸々な話はしづらく、聞くにしても女性の職人を通じて行うべきだろう。こういった宮内庁の無神経ぶりに雅子さまは頭を悩ますことになる。

皇居内部の事情通によれば、結婚以来毎月皇太子妃は天皇と皇后の前に呼び出される。この上なく丁寧で堅苦しい言葉を使い、天皇は雅子妃がその月生理があったかどうかを尋ねる。

そのたびに彼女は恥ずかしさに頭をたれ、悲しいことにまだ妊娠していないことを告白しなくてはならない。事情通たちはまた、雅子妃が世継ぎを産む義務を果たすまでは外出できないことを指摘する。

プリンセス・マサコ

宮内庁職員は雅子さまが妊娠しないのを非科学的な方法(外国への渡航を減らすなど)で解決しようとし、むしろストレスによって悪化させてしまった。西洋の教育を受けた皇太子殿下・雅子さまによって宮内庁的な解決策は前近代的で、信頼に足るものでなかった。

雅子さまも30代後半を迎えていた2001年、堤治東大教授を中心とした医師団を結成(※)。ようやく科学的なアプローチでの不妊治療が始まった。

※ 堤治氏は以前から非常勤医として関与していたが、この年正式に着任した。

2000年夏の頃から、彼は密かに東宮御所を訪ね、診察を始めていた。皇室病院ではあまり歓迎の様子を見せなかったが、それに対して彼は、

「いずれこの病院で皇太子妃に赤ん坊が生まれるものと期待していますよ」

といって、病院の人をぎょっとさせた。自信がありすぎるのは見苦しいと皇室の医師は小言を言ったが、彼らは7年にも渡って皇太子夫妻になんの助力もできずにいたのだ。

プリンセス・マサコ

堤教授の言葉通り、雅子さまは2001年に愛子さまをご出産。ちなみにご夫婦には希望で性別は出産まで知らされなかったが、妊娠5ヶ月時点で内親王(女児)であることが判明、宮内庁幹部・両陛下に共有されている。

皇位継承者を作ることが最優先の宮内庁にとって、愛子さまがお生まれになる前からすでに第2子に関してできる限りの準備を始めようとしていた。

宮内庁は残酷にも愛子さま出産直後の雅子さまに対して、すぐさま第2子を要求したのである。

望んでも妊娠しない、それは今ではごく普通に理解されていることだ。だが、皇太子妃が懐妊されないということを皇室制度は想定していなかった。そのため皇太子ご夫妻の置かれた状況はあまりにも困難なものだったが、ご夫妻がそれに立ち向かって行かれたからこそ、いまこの素晴らしい命の誕生につながったのだった。

その喜びを無にするような「第二子への期待」は、もはや恐怖であったと言っても過言ではないだろう。そのような非人間的な扱いに耐えられなかったとしても、それはけっして雅子妃のせいにできはしない。

ザ・プリンセス 雅子妃物語

2003年12月、宮内庁長官の湯浅氏が無神経にも「もうひとりほしい。秋篠宮夫妻に3人目を作って欲しい」と発言。これを機に雅子様は公の場に姿を現さなくなる。

噂が駆け巡り、宮内庁もとうとう隠しきれなくなった。当初の発表は「帯状疱疹」だった。ストレスなどが原因とされる帯状疱疹だが通常は1週間程度で治癒する。しかし雅子様の場合は入院し1ヶ月以上点滴を行うほどひどいものだった。

雅子様の母親は宮内庁に不信感をつのらせ、小和田家の別荘で雅子様を治すと主張した。翌年(2004年)の3月から1ヶ月、皇居を離れ長野県の別荘で愛子様と過ごした。

結局、2003年の末ごろから翌年春になっても回復の傾向は見られず、ようやく宮内庁は雅子様が適応障害でカウンセリングと投薬を受けていることを認めたのである。

宮内庁が病気を認めなかったのは、精神障害に対する偏見、宮内庁病院の医師による閉鎖的な診療体制が原因だろう。それを裏付けるように、当初は「皇太子妃は異常はない」「身体的には健康のはず」というふうに、精神病を病とみなしていないような表現をしている。

ここで、雅子様の病気に対する宮内庁の対応がどのようにまずいのか、もう一度整理したい。

問題点① 精神病を病と認識せずに、早期の治療に取り組まなかった

2019年現在はそうでもないが、当時(2003年頃)の60~70代にとって精神障害=精神病棟に入れられるような患者で身内の恥のような意識がまだ根強かった。形式を重んじる宮内庁にとって、皇太子妃がうつ病になったというのはメンツ的にも伝統的にも許されなかった。

そもそも職員の間でも「わがままなだけ」「アメリカ気質で権利主張が激しい」くらいに思って精神障害に対する理解がほとんどなかったのではないか。それによって治療開始に時間がかかり、外部の専門医(大野医師)を招聘したのはなんと2年以上経った後だった。

問題点② 症状発症後も病気を過小評価していた

日本では表向き「適応障害」という表現になっているが、海外の精神科医やジャーナリストの間では雅子様は重い鬱病であると認識されている。もちろん彼らは直接診察したわけではないが、主治医の大野医師も鬱病の専門家であり、事実上鬱病という言葉の印象を和らげるために適応障害と言っているに過ぎない(ちなみに大野医師の報告書の「鬱病」という表現は検閲削除されたという説もある)。

発症以来、宮内庁は「快方に向かっている」「◯月ごろには公務に復帰できそう」などと数年いい続けた。

問題点③ 精神病=サボりという偏見に基づく報道を引き起こした

宮内庁は皇室の体面のためになるべく症状を軽微に表現し、すぐに完治するような表現を使った。そのためマスコミを通じて多くの国民が「雅子様のご病気は一時的なものだ」と考えてしまった。

結果、雅子様に同情的だった世論はいつしか「雅子様は本当は病気ではなくて、わがままでサボっているのでは?」というあらぬ疑いを持つようになった。

例えば拍車をかけたのは雅子様が静養でスキーを楽しむような報道である。例えば仕事で鬱病になってしまった人を考えればわかるが、職場に向かうのが億劫で朝起きれない、電車のホームで自殺が頭をよぎるなどがあっても、仕事に関係のない趣味の時間は普通に過ごせるだろう。

それと同様で、雅子様にとっての鬱病は皇居でひな人形のように皇太子妃を演じることに起因していて、スキーとか私生活はむしろ療養上はプラスだった。

そういった病気の内容を不正確に伝えてしまったから、国民の反感を買いさらに雅子様を追い詰めてしまうことになった。

以上からまとめると、雅子様のご病気の原因は

  1. 宮内庁を中心とする抑圧的・旧態依然な環境
  2. 過度な出産へのプレッシャー
  3. 初期段階から発症後まで、病気に対する対応をひどく誤った

点にあろう。いずれも、皇室の存続に関わる重要な課題である。

例えば「抑圧的な環境」については、皇族は自由な外出ができず常に皇族らしく振る舞うことが要求される。オフがないわけだ。しかし首相ですらSPをつけず外出しているような時代だ。過激派(中核派など)など天皇制に反対する勢力によるテロを危惧していると思われるが、もう少し警備を軽くしてよいのではないか。希望すれば警護なしで外出できるだけで、かなりの精神的自由を手にできるかと思う。

「病気に対する対応」は、これはもう原則として外部有識者や外部の大学病院の専門家を中心に動くのが望ましい(実際不妊治療やうつ病治療にあたったのは外部のトップクラスの医師)。宮内庁病院という内輪の組織をなくし外部の病院を使うようにして、セカンドオピニオンとして当代一の専門医を集めた「皇室医療有識者会議」のようなものを創設すればよいのではなかろうか。

しかし「出産圧力」という問題は現在の皇位継承問題から見れば、放置すればまた確実に生じる問題だろう。「悠仁様がいるからとりあえず棚上げ」ではなく、雅子様のように一人に過大な負担がかからないような制度設計を早めに作らないと、また雅子様と同じように苦しむ人物が現れる。女性宮家などの議論も、皇室というテーマがホットな今のうちになるべく進めたいところだ。