1992年、皇太子殿下すなわち今上陛下(以下、皇太子殿下で統一する)は32歳になり、皇室の最年長独身記録という不名誉な記録を更新していた。2年前の1990年には弟の文仁親王(秋篠宮殿下)が結婚している。

上皇陛下は25歳、昭和天皇は22歳、大正天皇が20歳、明治天皇が16歳で結婚していたことから、皇太子殿下も20歳を過ぎた当たりからお妃候補が取り沙汰されるようになった。

しかし当時の国民は美智子さまの苦労(マスコミのバッシングや旧華族からの反発)、皇族は自由な振る舞いができないことなどを熟知していたから、多くの女性がお妃候補となることを拒絶した。

宮内庁がどうにかお妃候補のリストをこしらえても、今度は皇太子殿下が首を縦に振らなかったのである。

遡ること86年10月、スペインのエレナ王女の来日に伴い歓迎晩餐会が開かれた。雅子さまのご実家である小和田家に菊の紋章が押された招待状が届いた。

当時26歳だった皇太子殿下が自然な形で適正な女性と出会えるよう、宮内庁はあらゆるシーンでこうして招待を出していた。ただ、雅子さまの場合は宮内庁が考える理想のお妃像から遠く、小和田家に招待状が届いた正確な理由は現在も不明である。

浩宮(皇太子殿下)は挨拶の後、広間をまわりはじめた。彼は雅子の前に立ち止まった。雅子はお辞儀をする。すると彼は言った。

「小和田さんですね。来てくださってありがとう」

そして、外務省入省が決まったことにお祝いを言った。
二人は一、二分話し、その後、浩宮は侍従に促されて他の客に挨拶に行った。浩宮はのちに

「彼女に会った瞬間、何かに撃たれたようだった」

と友人に語っている。もっと西洋風にあからさまに言ってしまえば、それは一目惚れだったのである。

プリンセス・マサコ

皇太子殿下は数カ月後に雅子さまや友人を東宮御所に招き、食事をともにした。誰の目から見ても皇太子殿下が雅子さまに夢中なのは明らかだった。
しかしこれに肝を冷やしたのが宮内庁である。

幼少期から海外を渡り歩き、自分の意見をしっかり述べるキャリアウーマン的な雅子さまは、宮内庁が考える"良いお妃"とは真逆だった。レセプションパーティでは小和田家は招待客リストの最後に付け足されていたので、宮内庁も十分に吟味する時間がなかった。

そこで"宮内庁御用達"の丸の内の弁護士に依頼し、小和田家が不適格である理由を探った。それが母方の祖父である江頭豊のチッソ問題である。

この事実を見つけた宮内庁はさっそく皇太子殿下に雅子さまを諦めるよう説得、皇太子殿下はか細い声で同意したという。

雅子さまはハーバード大学時代、すでに父親よりも高い年俸を提示するアメリカ企業からのオファーを断り帰国、東京大学を経て外務省に入省した。

近年雅子さまに関して悪意ある報道が流れ、雅子さまはプライベートを公より優先する人物であるかのようにみなされるケースも多い。しかし幼少期から雅子さまはほとんどプライベートを犠牲にし、国に奉仕・貢献することを生きがいとしているような人物である(こういったエピソードは別の機会に紹介したい)。

外務省に入った後はOECDのような国際機関と連携する部署で、残業が月200時間を超えるようなハードワークをした。そこに舞い込んだのが皇太子殿下との縁談、マスコミの取材攻勢だった。

父親のようにキャリアを重ねて国に貢献することを目標にしていた雅子さまにとって、この申し出は困惑だった。

一度、カメラの前で毅然とこう答えている。

わたしには関係ありません。どうかそっとしておいてください。

別のニュース映像では記者に所属と名前を名乗るように要求するシーンも放送された。皇室らしいお淑やかさとは真逆の振る舞いに宮内庁はますます雅子さまを煙たく感じるようになった。

それから数年、宮内庁は雅子さまに代わるお妃候補を大量に作ったが、すべて断られるか、皇太子さまが難色を示すかのどちらかだった。次第に皇太子さまは宮内庁が差し出す候補者と会おうとしなくなる。

「雅子さんはまだ独身のようですね」

婉曲的ではあるが自己主張の少ない皇太子さまとしては、雅子さまと会いたいという最大の表現だった。
ようやく危機感を覚えた宮内庁は雅子さまとの縁談を進められないか検討し始めた。例によって"宮内庁御用達"の弁護士によって江頭豊がチッソ問題で中心的な役割でなかったことを"発見"すると結婚にGOサインを出す。

引用: iRONNA

天皇皇后両陛下は皇太子殿下がご自身で選んだお相手との結婚に賛成で、雅子さまとの結婚も反対しなかった。92年、結婚までのハードルは雅子さまの父親の小和田恒氏と、雅子さま御本人のお気持ちだけとなった。

外務省ルート

縁談をまとめようと中心になって働きかけたのが外務省OBらのルートである。娘の将来を案じる小和田氏に対して、「皇統存続の危機」と訴えられては断るわけにもいかなかった。

外務省の7年先輩にあたる柳谷謙介元外務次官を始めとする有力OBがこぞって小和田氏に働きかける。

「外務省事務次官である親の恒さんに対するプレッシャーはすさまじいものがあったと思いますね」というのはある外務省OBである。

今回の婚約には外務省OBが果たした役割が大きいとされるが、OBどころか外務省ぐるみで小和田家に圧力をかけていたフシがあるのだ。

「最後は外務大臣の渡辺美智雄までがシャシャリ出てきて、小和田次官や雅子サンに圧力をかけていたらしい」

(中略)

「小和田サンも政治的野心の強い人ですからね。当初は娘のことを考えてかなり抵抗していたらしいんですが、途中から方針転換したんじゃないですか。断った時の政治的リアクションを考えれば、最後はやはり受けざるを得ないでしょう

噂の真相 2004.01月別巻

天皇皇后両陛下による直接交渉

当時皇太子殿下の結婚を巡って天皇皇后両陛下も非常に憂慮されて、陛下自ら侍従長に小和田家との縁談をまとめてほしいと強く訴えている。
一説によれば、美智子さまが小和田家に電話をかけたこともあるという。

ほとんどの有力な情報源は、美智子皇后が小和田家に電話をしたと言っている。
そのときに雅子と両親に、雅子が息子との結婚に同意するなら、自分が全力を尽くして守ると約束したのだという。

プリンセス・マサコ

極めつけは皇太子殿下自らが有名な鴨場のデートで、皇室外交ができれば外交官としての目標も達成できる、雅子さまのキャリアを通じて国に貢献できると語ったことである。皇太子殿下は冷静沈着で穏やか、当たり障りのない発言をする印象が強いが、当時のこの発言は振り返ってみればかなり踏み込んでいる。

それだけ皇太子殿下が雅子さまに熱を上げ、焦っていたことを表しているだろう。

・・・彼と一緒に外国を訪ね、皇室外交ができるだろうと答えた。彼は外交的な役割を求婚の道具に利用したが、それは大きな間違いだった。皇室はただの象徴で、外交活動に加わってはいない・・・そうであってはならないのだ。彼は守ることのできない約束をした。約束をした彼は愚かだったし、それを信じた彼女も愚かだった。

プリンセス・マサコ

雅子さまは皇太子さま御本人には少なからぬ好感は抱いていたが、外務省のキャリアを捨てること、皇室に身を置くことで制約される自由、自らを毛嫌いする勢力の存在を不安に思っていた。

しかしこうして半ば外堀を埋められる格好となった雅子さまは皇太子殿下との結婚を受け入れざるを得なかった。

「私がもし殿下のお力になれるのであれば、謹んでお受けしたいと存じます。」

これに対して皇太子さまは、

「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」

と誓った。

母親の見送りの言葉はまるで

その数カ月後の門出の日、雅子さまを見送る家族の表情は複雑だった。

母親の挨拶は、娘の幸せな結婚生活を祈る母親の言葉というより、兵士を戦いに送り出す将軍の言葉のように聞こえた。

「体に気をつけて・・・国のために一生けんめいおつとめして」

プリンセス・マサコ

これが当時の結婚の真実であり、雅子さまやその家族にとって、当時世間が感じていた晴れやかさはなかった。すべては宮内庁によって管理された情報を報道するマスコミが作り出した、幻想のお祝いムードだった。

あれから二十数年、雅子さまがほとんどの約束を反故にされたのは言うまでもない。宮内庁は父親に政治的圧力をかけ、雅子さまを騙し、甘い言葉で皇室入りさせてからは連日精神的に虐待し続けたのである。

宮内庁は旧態依然とした男性中心主義によって運営されていて、女性の意向を無視したり一方的に結婚・離婚させようとするなど、女性軽視が甚だしい省庁である

あまり知られていないが、宮内庁は財務省や経産省のような一般の省庁と違い、そのほとんどが縁故採用である。また他の省庁は明治維新以降に作られたが、宮内庁は明治維新よりはるか以前の古代から存在する「宮内省」に歴史を端する。要するに近代合理主義と真逆の考えをもった特殊な人々によって運営される官庁である。

幸いなのはこうして強引にセットされた結婚だったが、今上天皇皇后両陛下の夫婦仲は良い点だ。結婚後多くの裏切りを受けた雅子さまだったが、人格否定発言で宮内庁と対峙したように、陛下の「一生全力で守る」という約束だけは堅く守られているからである。

日本人の精神的支柱である皇室が、旧態依然・偏見に満ち溢れた宮内庁の支配を打破することで、日本全体が新しい時代を迎えられることを切に祈っている。